村山愛助(水上恒司)のモデル吉本頴右は吉本興業御曹司!?笠置シヅ子との出会い、死因は?【画像あり徹底解説】

ドラマ

2023年10月2日からスタートしたNHK朝の連続テレビ小説「ブギウギ」。

 

主人公スズちゃんの運命の人、村山産業の御曹司・村上愛助を俳優の水上恒司さんが演じます!!

朝ドラ「ブギウギ」は、戦後の大スター笠岡シヅ子がヒロインのモデル。

 

では、その主人公の運命の人、村上愛助のモデルとなっている人は実在していたのでしょうか?

そして、村上愛助のモデルとなっていた人は、どんな人だったのか?

 

今回は、村上愛助のモデルとなった人物について調査しました!

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村山愛助(水上恒司)のモデル吉本頴右は吉本興業御曹司!

 

村山愛助のモデルは、吉本興業の御曹司である、吉本頴右(よしもと えいすけ)です。

 

吉本頴右は、1923年に生まれ。

吉本頴右は、母親吉本せいと、父親吉本泰三の次男です。

 

母親吉本せいと父親吉本泰三の物語は、2017年に放送された朝の連続テレビ小説「わろてんか」にて描かれています。

 

 

<吉本頴右プロフィール>

 

名前:吉本頴右(よしもと えいすけ)

生年月日:1923年10月26日

年齢:25歳 没(1947年5月19日)

出身地:大阪府

家族:父・吉本泰三、母・吉本せい、姉・喜代子、姉・千代子、姉・吉子、姉・峯子、姉・幸子、姉・邦子、兄・泰之助

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村山愛助(水上恒司)のモデル吉本頴右 どんな人?生い立ちは?

 

 

吉本頴右は、日本の芸能プロモーターであり、吉本興業の創業者・吉本泰三、吉本せいの次男として生まれました。

 

が、長男・吉本泰之助が逝去していた事から、跡取り息子として生まれました。

 

父・吉本泰三と母・吉本せいは、家業の荒物問屋が廃業した事をきっかけに、1912年寄席の経営を開始。

瞬く間に力を拡大し、1922年には大阪の演芸界を制覇し、吉本王国を築きました。

 

そして、吉本頴右は、1923年10月26日に生まれます。

 

しかし、吉本頴右が生まれた直後の1924年2月13日に父・吉本泰三が39歳という若さで亡くなってしまいます。

 

39歳で死去とは、、、、順風満帆に、事業が成功していた矢先、跡取り息子も生まれたというのに、、吉本頴右さんのお父さん、さぞ心残りだったろうと思います。

 

長男も逝去していた為、母・吉本せいは生まれたばかりの吉本頴右に家督を相続させ戸主としました。

昔は、男の子にすぐに家督相続させていたんですね!

 

そして、母・吉本せいは、吉本頴右の親権を行使する形で吉本興業を運営し、実質的な経営は母・吉本せいの弟・林正之助に任せました。

 

以降、林正之助が吉本興業の実質的経営者となります。

が、林正之助は吉本頴右に吉本興業を相続させる事を確約しており、吉本頴右は吉本興業の後継者として育ちました。

 

吉本頴右は、北野中学から早稲田大学に入学し、東京での生活を楽しみながらも、吉本興業を背負うべく、叔父・林正之助からも帝王学を学びました。

 

吉本頴右、お父さんは亡くなってしまいましたが、お母さま、おじさまに大事に育てられていたということがわかりますね!

 

吉本頴右さん、今もある大阪の吉本興業の御曹司だったということにびっくりです!

 

御曹司吉本頴右さんと人気歌手笠置シヅ子が、恋愛していたなんて素敵ですね!

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村山愛助(水上恒司)のモデル吉本頴右 笠置シヅ子との出会いは?

村山愛助(水上恒司)のモデル吉本頴右と笠置シヅ子は、どんな風に出会って、恋に落ちたのでしょうか?

村山愛助(水上恒司)のモデル吉本頴右と笠置シヅ子の恋愛模様、気になります。

 

1943年、当時人気の女性歌手・笠置シヅ子さんと吉本頴右は出会い、恋に落ちます。

 

実は、吉本頴右は、松竹楽劇部にいたころから笠置シヅ子さんのファンでした。

 

吉本頴右、2人の出会いは、笠置シヅ子さんが名古屋に慰問に行っていた時です。

 

日付まで明確にわかっていて、1943年6月28日のことです。

 

吉本頴右は、早稲田大学在学中に大阪へ帰阪する際、名古屋に立ち寄り御園座へ。

その際に、御園座の楽屋で、9歳年上の笠置シヅ子(亀井静子/30歳)と出会い、お互いに一目惚れをします。

 

え?笠置シヅ子(亀井静子/30歳)、吉本頴右より、9歳年上だったんですか??!

吉本頴右とは、かなり年が離れていますね。。。

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吉本頴右は翌日に大阪へ、笠置シヅ子は翌日神戸へということがあり、2人の向かう方向が同じだったことから、同じ汽車に乗ることに。

 

翌日、同じ汽車に乗った二人。

吉本頴右の目的地は大阪だったが、神戸まで行き、笠置シヅ子を降ろしてから、大阪へと戻ったそうです。

もう、この時点で、吉本頴右と笠置シヅ子、離れがたくなり、恋に落ちてしまったんですね♡

 

出会った翌年1944年、吉本頴右は病気を患いますが、二人は結ばれ、結婚を誓い合います。

 

この時、母・吉本せいさんは二人の結婚に反対したそうです。

 

理由は、笠置シズ子さんが9歳上であったことや吉本せいさんからすると、笠置シズ子さんは商品だからのようです。。

そうでしょうね。。。

吉本興業という大会社の御曹司と、スターとはいえ芸人の一人な女性。

吉本頴右さんと笠置シヅ子さん、反対は、あってもおかしくないですよね。

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でも!

母・吉本せいさんの反対があったとはいえ、吉本頴右さんと笠置シヅ子さんは、同棲します。

 

1945年に東京大空襲で、吉本頴右さんと笠置シヅ子さんは、家を焼失。

 

吉本興業の東京支社長・林弘高が用意してくれた林弘高の隣家に移り住み、吉本頴右さんと笠置シヅ子さんは、同じ屋根の下で同居を始めたんだそうです。

 

当時、戦況は悪化の一途を辿っており、苦しい時期ではありましたが、吉本頴右さんと笠置シヅ子さんは、幸せな時間を過ごしました。

1945年8月15日、玉音放送が流れ、日本は敗戦。

 

戦後、芸能界の復興は早く、笠置シヅ子も1945年11月に東京・有楽町の日本劇場で戦後第一回公演「ハイライト」に出演し、活動を開始しました。

吉本頴右も早稲田大学を中退し、1946年から吉本興業東京支社で働く事になったので、二人は同棲を解消しました。

 

その後も吉本頴右さんと笠置シヅ子さんは、仕事の合間を縫って交際を続けており、1946年10月に笠置シヅ子は妊娠に気付きます。

 

このようななか、吉本頴右は吉本家の財産を整理しなければならず、大阪の吉本興業へもどります。

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結婚して、芸能界から引退する笠置シヅ子。

笠置シヅ子は、1947年1月19日の主演舞台「ジャズカルメン」を最後に引退して、出産のために東京・目黒の桜井病院に入院しました。

 

ところが、大阪にもどった吉本頴右は、病気が悪化していきます。

吉本頴右は、治療の甲斐もなく、病気は悪化の一途を辿り1947年5月には憔悴し、危篤状態の一歩手前になります。

 

叔父・林正之助は、最後に一目でも笠置シヅ子に合わせてやろうと考えますが、吉本頴右は、身重の笠置シヅ子を気遣って、叔父の提案を断ります。

 

そして、1947年5月19日、笠置シヅ子に再会することも、子どもに会うことも出来ず、吉本頴右は死去します。享年25歳でした。

 

吉本頴右の死去から、数週間後の1947年6月1日、笠置シヅ子は悲しみの絶望の中で吉本頴右の浴衣を握りしめながら、長女・亀井エイ子を出産しました。

 

吉本頴右と笠置シヅ子の二人の出会いから別れまでのストーリーは、まるでドラマですね。

私は、吉本頴右と笠置シヅ子の二人の悲恋を知り、涙が出そうでした。

 

時系列を見ても、吉本頴右と笠置シヅ子、実は、出会いから別れまでたった4年という短い期間でした。

第2次世界大戦を生き延びたのに、病で命を落としてしまうとは、、、

しかも、子供まで生まれるのに。。。

吉本頴右、悔しかったでしょうね。

 

吉本頴右と笠置シヅ子は、忘れられない、一生涯をかけた濃い4年間を過ごしたのだろうな、、と思います。

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